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三十年戦争は国家間の覇権戦争でもあった。その面では、この条約で多くの利益を得たのはフランスとスウェーデンである。
フランス王国はカトリックでありながら戦勝国となった。ハプスブルク家の弱体化に成功した上、アルザスを得たフランスは、以後ライン川左岸へ支配領域の拡大を図り、侵略戦争を繰り返すことになる。しかし、全てが成功したわけではない。宰相リシュリューは、国王ルイ13世をケルン大司教(選帝侯)に、更には神聖ローマ皇帝位に付けることを狙っていた。フランスは獲得した量は多大であったが、神聖ローマ皇帝という質を獲得する野望は果たせなかった。
またフランスは、アルザスやロレーヌの一部を獲得しながら、帝国諸侯となることは出来なかった。フランスへの割譲は後述するスウェーデンへの割譲の場合と違い、その地域の帝国からの離脱を意味したのである。これにより、フランスの帝国議会・帝国クライスへの介入の道は閉ざされた。のちにルイ14世は再統一政策を掲げてライン川流域に手を伸ばすが、帝国クライスで結束した諸侯たちは一致してフランス勢力に立ち向かうことが出来た。
スウェーデンもこの条約でバルト海沿岸部に領土を獲得し、その一帯に覇権を打ち立てた。この時代のスウェーデンはバルト帝国とも称される。その一方で、1644年に親政を開始したクリスティーナ女王が寛大な姿勢で大幅な譲歩をしたため、取り分が激減してしまったとも言われる。彼女は父グスタフ・アドルフの理想(古ゴート主義)を放棄し、カトリックと和解した。彼女の理想は全キリスト教世界の救済だったのである。グスタフ・アドルフの政策を受け継ぎスウェーデンに勝利をもたらした宰相オクセンシェルナは親政により事実上失脚した。後に彼女はスウェーデンのプロテスタント教会と反目し、王位を返上してカトリックに改宗する。
またスウェーデンにおいて重要だったのは、フランスとまったく逆に、レーエンという形で領土を与えられたということである。すなわち、スウェーデンはフォアポンメルン、ブレーメン、フェルデンを得たが、これはスウェーデン王がフォアポンメルン公、ブレーメン公、フェルデン公の位を帯びることを意味したのである。スウェーデンは帝国議会に席を持ち、オーバーザクセン、ニーダーザクセン、ニーダーライン・ヴェストファーレンの3つの帝国クライスに席を占めた。この結果、この3つの帝国クライスはスウェーデンの介入により機能不全に陥ったが、その一方でスウェーデンは帝国諸侯として帝国が戦争を行う場合には兵員と軍資金の供出を義務づけられることとなった。オランダ戦争の際、1674年に帝国議会が対フランス戦争を宣言すると、スウェーデンはフランス側にたち、1675年に神聖ローマ帝国と戦争を始めるのであるが、スウェーデンは帝国と戦争を行いながらも、ブレーメン公としてニーダーザクセン・クライスに定められた兵員を供出する、という奇妙な立場に立たされることとなった。
ドイツは、帝国内の領邦に主権が認められたことにより、300に及ぶ領邦国家の分立が確定した。また皇帝の権利は著しく制限され、いわば諸侯の筆頭という立場に立たされることとなった。これにより、ハプスブルク家は依然として帝国の最有力諸侯として帝位を独占したものの、帝国全体への影響力は低下し、自らの領地であるオーストリア大公国やボヘミア王国・ハンガリー王国などの経営に注力せざるを得なくなった(ハプスブルク君主国)。その一方で、帝国の組織は保存され、それら領邦国家の保存・平和的な紛争解決手段として活用されることとなった。
デンマーク、イングランド(ピューリタン革命の中途)はプロテスタントでありながら戦勝国に加われなかった。また、カトリックのスペイン・ハプスブルク家がこの戦争を通して勢力の減退を印象づけ、以後は没落の一途をたどることになる。
従来、ヴェストファーレン条約は「帝国の死亡証明書」などと呼ばれてきた。ヴェストファーレン条約により神聖ローマ皇帝の権力が失われ、各領邦の主権が整ったことをもってこのような評価が為された。
これは、ドイツ国民史において、「なぜドイツはイギリスやフランスよりも近代化に手間取ったのか」という問いを立てたとき、旧態依然たる神聖ローマ帝国が問題であったと考えるのが妥当であったからである。しかしこの考え方は第一にプロイセンによるドイツ統一を正当化しようという意図が見られるということ、第二にフランス型の近代化を正統と見なそうとしているということ、以上二点の問題がある。
また、その一方で、死んだはずの帝国がなぜ消滅まで150年もかかったのか、弱小な帝国諸侯のほとんどが消滅まで命脈を保てたのはなぜか、新旧両派が存続し帝国権力もなくなったにも関わらず宗教戦争が以後起こらなかったのはなぜか、といった疑問にも答えることが出来ない。
こういった理由から、ヴェストファーレン条約や神聖ローマ帝国に関しては、大幅な見直しが進んでいる。
1655年から続くスウェーデンを環とした北方戦争は、ロシアとの講和を最後にして収束し、スウェーデンのバルト海制覇、つまり北方の覇権を完璧なものとしたが、北東ヨーロッパのヘゲモニーを完全に覆すものではなかった。特にポーランドのダイビング
化は、東欧に新たな火種を残すこととなった。ロシアはポーランドとの戦争を再開し、デンマークではスウェーデンの脅威は完全に去ったが、国内の安定化を図り、絶対主義を開始した。また、北東ヨーロッパの熾烈な覇権争いの狭間で、ブランデンブルク=プロイセンはこの間隙を縫って自立に成功した。全ての強国のくびきから脱したプロイセンは、大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの元で、18世紀以降のプロイセン王国の強大化の基礎を築いたのである。
ナイメーヘンの和約(Treaties of Nijmegen)とは、1678年から1679年にかけてオランダのナイメーヘンで締結された諸条約の総称。オランダ戦争(オランダ侵略戦争)の講和条約となった。
フランスは、フランドル戦争(南ネーデルラント継承戦争)で獲得できなかったフランシュ・コンテ地方をハプスブルク家から奪った。また、フランドル地方のいくつかの都市を獲得した。しかし、財務長官コルベールがオランダ経済の圧迫を狙って行っていた高関税政策を放棄することも確認され、1664年の水準に戻された。
ネルチンスク条約(―じょうやく、中国語:尼布楚條約)は、1689年にロシア帝国と大清帝国との間で結ばれた両国の境界線などについて定めた条約。清とヨーロッパ国家との間に結ばれた初めての対等な条約で、その内容は満洲(現・中国東北部)での国境を黒龍江・外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の線に定めるというもの。
17世紀中頃からロシア人が黒竜江・アルグン川より南下(後の南下政策)するようになった。このため清と李氏朝鮮の連合軍がたびたび討伐を行った。清は逃亡者の引き渡しをロシアに求め、さらにロシア人の撤退を求めた。しかし、ロシアはこれを拒否した。
清が討伐軍を本格的に動かし始めたため、ロシアはゴロビーンを特使として派遣し、1689年にネルチンスクで清の索額図(ソンゴトウ)と交渉を開始した。ロシアは清との交易を望み、清はモンゴルのジュンガルを孤立させることを望んだため、高速バス
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関係が一致し、交渉が成立した。
内容は、次の通りである。
国境をアルグン川・ゴルビツァ川と外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の線に定める。
ウディ川と外興安嶺の間は未確定部分とする。
アルグン川以南からロシア人は退去する。
不法越境を禁止する。
旅券をもつものは交易を許される。
対等の条約ではあったが清にとって有利なものとなった。なぜならロシア側にとっての念願であった不凍港を北海道旅行
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できなかったからである。清は、ロシア関係の事務をモンゴルや内陸アジアの朝貢を扱う理藩院で行うなど、ロシアを朝貢国としてみなしていた。
その後、1858年のアイグン条約で黒竜江が両国の境界線となり、1860年の北京条約でネルチンスク条約は廃棄された。
両国間では言語が異なるため条約の原文はラテン語からなっている。