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- ルーマー
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スペインはこの条約のおかげでアメリカ大陸の全域で優先権を持つことができた。ただ、現在のブラジルにあたる領土は1500年にペドロ・アルヴァレス・カブラルが到達したため、ポルトガルに与えられた。この条約はアジアにも適用されると考えられていたが、経度の厳密な測定が困難だったこの時代にはアジアにはどのように適用されるのかよくわからず、再度の論争が起こることになった。ただ、この条約についてスペインもポルトガルも過度にこだわった様子はなく、アメリカ大陸にポルトガルが植民活動をおこなうことをスペインも黙認している。
フランス、イギリス、オランダといった国々はこの条約によって領土獲得の優先権から締め出される形となった。この状況を打破するには、スペインやポルトガルの船団に対して海賊行為をおこなうか、(このころはまだ難しかった)教皇の決定を無視するかという選択肢しかなかった。こうして新領土獲得から締め出された国々の心情は、フランソワ1世のものとされる「(新領土から締め出される根拠とされた)アダムの意志とはいったい何か?」という言葉によくあらわされている。
なお、1982年にイギリスとアルゼンチンで勃発したフォークランド紛争の際、フォークランド諸島領有の根拠としてアルゼンチンはトルデシリャス条約を持ち出しており、敗戦後も現在まで同諸島の領有を主張し続けている。
マゼラン艦隊の生き残りを引き継いだフアン・セバスティアン・エルカーノが世界一周航海をなしとげてヨーロッパへ帰還すると、新しい疑問が起こってきた。それは地図上に南北に線をひいてスペインとポルトガルの境界をさだめていても、地球が丸いなら不完全なもので、もう一本線をひかなければ分割の意味をなさないのではないかという当然の疑問であった。
特に両国は当時、東南アジアのモルッカ諸島の帰属をめぐって熾烈な争いを繰り広げていた。モルッカ諸島は当時の貴重品であった香辛料の一大産地だったからである。なお、この時代の「モルッカ諸島」というのは現代でいうところのマルク諸島、ブル島やセラム島を指している。さらにはモルッカ海を囲む島々も「モルッカ諸島」に分類され、香辛料の産地として有名であった。
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における線引きのための交渉がおこなわれ、新たに発効されたのが1529年4月22日に批准された「サラゴサ条約」である。サラゴサ条約はモルッカ諸島の西297.5リーグを通る子午線を第二の境界とした。これは位置的にはブル島の東1425km、東経144度30分の位置にあたっている。この子午線はニューギニア島中央部を通る。この条約を結んでアジアにおける地位を保全してもらうかわりにポルトガルはスペインに賠償金を支払っている。これによってポルトガルのマカオにおける権益が承認された。スペインはオーストラリア全域における優先権を獲得したが、ポルトガルによる調査を禁止した形跡はない。
アウグスブルクの和議(独:Augsburger Reichs- und Religionsfrieden)とは、神聖ローマ帝国のアウグスブルクで開催された帝国議会において1555年9月25日になされた、ドイツにおけるルター派容認の決議である。アウグスブルクの宗教和議ともいう。
これによりハプスブルク家のカトリック教会を介した帝国支配の野望は挫折するが、一方ではカルヴァン派の信仰は認められず、また個人の信仰も認められずに信仰の選択は都市や領主が決定するものとした。このことは将来に禍根を残し、三十年戦争の契機ともなった。
1526年、神聖ローマ皇帝カール5世は、東方からのオスマン帝国の圧力が強まる中、シュパイエル(Speyer)における帝国議会でルター派諸侯に譲歩した。このことは、領邦君主が領内の教会を統制下におく、領邦教会体制の出発点として位置づけられた。しかし、1529年に同地で再び開催された帝国議会で前回の決定を撤回し、再びカトリック政策の徹底を図ったため、ルター派諸侯らは、この決定に対する抗議文(protestantio)を提出した。
更にルター派諸侯は、1531年にシュマルカルデン同盟を結び、領内のカトリック教会の財産没収などの挙に出た。以後、同盟とカール5世の反目が続いたが、フランスとのイタリア戦争に奔走していたこともあり、両勢力の本格的な衝突は回避された。しかし、1544年に不動産
の講和が成立すると、カール5世はトリエント公会議などを通じてカトリック勢力の再結集を図り、1546年よりルター派諸侯とも争うことになった(シュマルカルデン戦争)。この戦争において同盟軍を撃破したカール5世が1度は優位に立つが、1552年にザクセン選帝侯モーリッツが同盟側に付いたことや、ハプスブルク家の財政難が深刻化していたことから、同年パッサウにて開催された諸侯会議で、次の議会をもって新旧両教派の対立を終息させるとの申し合わせがなされた。これを受けて、ドイツ王フェルディナント1世(カール5世の弟)は1555年2月、アウグスブルクに帝国議会を招集し、同年9月25日、一応の和議が成立した。これがアウクスブルクの和議(アウクスブルクの宗教平和令)である。
この和議において、領邦君主にカトリック、ルター派の宗教選択権が認められた。ルター派を支持する諸侯がカトリック教会・修道院の組織・財産を統制下におくことを事実上認める決定であり、これをもって領邦教会体制が確立したとされる。この後、自らの勢力を強めた領邦君主は、徐々に領内の自由都市にも統制を強めて特権などを剥奪していくことになり、領邦国家ごとの集権化が推進された。
カトー=カンブレジ条約(Peace of Cateau-Cambresis)は、16世紀前半のイタリアを巡る戦争(イタリア戦争)を争ったヴァロワ朝(フランス)とハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)が1559年に結んだ講和条約。
フランスはイタリアへの権利を放棄し、ミラノ、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、トスカーナ西南岸がハプスブルク家の統治下に定まる。代わりにフランスはロレーヌ(ロートリンゲン)を譲受した。これによってイタリア戦争は完全に終結する。スペインのフェリペ2世は、フランスのアンリ2世の娘エリザベートと結婚した。また、フィレンツェ公国のメディチ家は、シエーナを獲得した。
カトー=カンブレジは、フランス北部の地名。アンリ・マティスの生まれた地でもある。
ヴェストファーレン条約(独: Westfalischer Friede 英: Peace of Westphalia)とは、三十年戦争の講和条約で、ミュンスター条約とオスナブリュック条約の総称である。日本ではヴェストファーレン条約を英語読みでウェストファリア外為
と呼んでいる。近代における国際法発展の端緒となり、近代国際法の元祖ともいうべき条約である。
この条約によって、ヨーロッパにおいて30年続いたカトリックとプロテスタントによる宗教戦争は終止符が打たれ、条約締結国は相互の領土を尊重し内政への干渉を控えることを約し、新たなヨーロッパの秩序が形成されるに至った。この秩序をウェストファリア体制ともいう。
1648年10月24日に、ヨーロッパのほとんどの大国が参加して、現在のドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州にあるミュンスターで締結された(実際にはオスナブリュック条約もミュンスターで締結された)。取り決められた内容は膨大だが、代表的なものとして以下の事柄が挙げられる。
フランスは、アルザス地方と、ロレーヌ地方のメッツ、トゥール、ヴェルダンを獲得した(神聖ローマ帝国からの離脱を確認)。
スウェーデンは、フォアポンメルン公位(ポンメルン西半。オーデル川河口、ヴェーザー川河口を含む)、ヴィスマール市、ブレーメン公位(旧大司教)、フェルデン公位(旧司教)などを獲得した。
スイス、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、独立を承認された(神聖ローマ帝国からの離脱を確認)。
ブランデンブルクは、ヒンターポンメルン公位(ポンメルン東半)を獲得した。
アウグスブルクの和議の内容を再確認、カルヴァン派を新たに容認した。
神聖ローマ帝国内の領邦は主権と外交権を認められた。
一方皇帝は、法律の制定、戦争、講和、同盟などについて帝国議会の承認を得なければならなくなった。
議会及び裁判所におけるカトリックとプロテスタントの同権が規定された。
バイエルン公マクシミリアン1世は、与えられた選帝侯位はそのまま認められ、またプファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒは選帝侯位を新たに与えられた。旧プファルツ領は両者で分割され、バイエルン選帝侯はオーバープファルツを獲得した。なお、バイエルンとプファルツが統合された場合にはプファルツの選帝侯位は消滅することとされた。
この結果、フランスは、アルザス・ロレーヌへの勢力拡大に成功し、スウェーデンは帝国議会への参加権を得た。一方、ドイツでは領邦主権が確立し、領邦君主による連合体としてのドイツという体制が固まった。
この条約の成立によって、教皇・皇帝といった普遍的、超国家的な権力がヨーロッパを単一のものとして統べる試みは事実上断念された。これ以降、対等な主権を有する諸国家が、外国の存在を前提として勢力均衡の中で国益をめぐり合従連衡を繰り返す国際秩序が形成された。この条約によって規定された国際秩序はヴェストファーレン体制とも称される。
三十年戦争はカトリック派諸国、とりわけハプスブルク家の敗北によって終わった。この条約で新教徒(特にカルヴァン派)の権利が認められ、帝国議会や裁判所におけるカトリックとプロテスタントの同権が定められたこと、またカトリックの皇帝が紛争を調停する立場にあるわけではないことが確定したことで、ドイツでは紛争を平和的に解決する道が開かれた。このため最後の宗教戦争と言われる。