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これは国際関係の研究史上重要な資料であり、国際連合本部にもレプリカが展示されている。
平和条約の最も著名な例は、第一次世界大戦の公式な終わりとなったヴェルサイユ条約がある。この条約は一方では最も悪名高い平和条約で、歴史学者の中にはドイツにおける反発やナチズムの勃興につながり、第二次世界大戦を結果的に引き起こしたとして糾弾する者もいる。ヴェルサイユ条約により、ドイツは巨額の賠償金を戦勝国へ払うよう強制され、第一次大戦を起こした戦争責任を唯一引き受けさせられ、再軍備に関して厳しい制限をかけられたが、これがドイツ国内に深い恨みと反感を呼び起こした。ヴェルサイユ条約に第二次大戦を引き起こした責任があるのかどうかについてはさておき、これは平和条約を作ることに存在する困難を示すものである。
その他平和条約の有名な例にはウェストファリア条約として知られる一連の平和条約がある。これは近代的な外交手法の始まりであり近代国際法の元祖となり、近代的な国民国家システムの開始ともされる。この後の戦争は宗教の問題をめぐるものではなく、国家の問題をめぐるものとなった。またカトリックとプロテスタントの勢力が同盟を結ぶことを可能にし、欧州の再編につながった。
ローディの和(Treaty of Lodi)とは、15世紀イタリアの五大国が1454年に結んだ和平協定。イタリアの諸都市国家間の戦争に終止符を打った。
イタリアはそれまでルネサンスの時代を迎えていたが、一方でイタリアの覇権を巡って戦乱の絶えない時代でもあった。しかし1453年、東ローマ帝国が大国として著しい台頭をしたオスマン帝国に滅ぼされると(コンスタンティノープルの陥落)、イタリア諸都市国家はにわかに危機感を強めることとなった。翌1454年イタリアで当時五大国と知られていた国々がローディに集結し協定が結ばれた。
この和平協定によってイタリアは、諸都市国家間の戦乱の時代に終わりを告げ、その後40年間に及ぶ「イタリアの平和」をもたらすことになった。またルネサンス(盛期ルネサンス)も最盛期を迎えることになる。
トルデシリャス条約(スペイン語:Tratado de Tordesillas, ポルトガル語: Tratado de Tordesilhas)は1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれた条約で、当時両国が盛んに船団を送り込んでいた「新世界」における紛争を解決するため、教皇アレクサンデル6世の承認によってヨーロッパ以外の新領土の分割方式を取り決めた。
本条約において西アフリカのセネガル沖に浮かぶカーボベルデ諸島の西370リーグ(1770km)の海上において子午線にそった線(西経46度37分)の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することが定められた。名称の由来は、条約が批准されたカスティージャのトルデシリャスの地名からとられている。
サラゴサ条約もまた同じ意図によって、1529年に両国の間で批准された条約である。
1492年、クリストファー・コロンブスが「インド」(実際には西インド諸島)に到達し、帰還したことによって、ポルトガル・スペイン両国において「新世界」への冒険的航海がブームとなった。しかし、コロンブス以前から、船団の到達先において両国はしばしば争い、抜本的な解決策が求められていた。
すでに1481年に布告された教皇シクストゥス4世の回勅『エテルニ・レギス』(永遠の王)で、カナリア諸島以南の新領土はすべてポルトガルに与えられると定められていた。ところが1493年になるとスペイン出身であった教皇アレクサンデル6世が自国に便宜をはかろうとし、カーボベルデの西わずか100リーグの地点を通過する子午線を境界線(教皇子午線)に、それより東側はポルトガルに優先権を認めるにせよ、西側の土地はすべてスペイン領にするというFX
『インテル・チェテラ』を布告した。西方への航海熱が高まっていた時代、当然ポルトガルのジョアン2世にとってこの裁定は面白くなかった。
そこでジョアン2世はスペインのフェルディナンド2世と直接交渉してこの決定をくつがえし、境界線をさらに西側(結果的には教皇子午線よりさらに270リーグ西側)に移動させようとした。それによって「アジア」におけるスペインの影響力を抑えようとしたのである。こうして改めて結ばれたのがトルデシリャス条約であり、この条約を教皇が承認することで1493年の回勅を無効化することができた。トルデシリャス条約は1506年にユリウス2世によって廃止されるまで有効であった。
スペインはこの条約のおかげでアメリカ大陸の全域で優先権を持つことができた。ただ、現在のブラジルにあたる領土は1500年にペドロ・アルヴァレス・カブラルが到達したため、ポルトガルに与えられた。この条約はアジアにも適用されると考えられていたが、経度の厳密な測定が困難だったこの時代にはアジアにはどのように適用されるのかよくわからず、再度の論争が起こることになった。ただ、この条約についてスペインもポルトガルも外為
にこだわった様子はなく、アメリカ大陸にポルトガルが植民活動をおこなうことをスペインも黙認している。
フランス、イギリス、オランダといった国々はこの条約によって領土獲得の優先権から締め出される形となった。この状況を打破するには、スペインやポルトガルの船団に対して海賊行為をおこなうか、(このころはまだ難しかった)教皇の決定を無視するかという選択肢しかなかった。こうして新領土獲得から締め出された国々の心情は、フランソワ1世のものとされる「(新領土から締め出される根拠とされた)アダムの意志とはいったい何か?」という言葉によくあらわされている。
なお、1982年にイギリスとアルゼンチンで勃発したフォークランド紛争の際、フォークランド諸島領有の根拠としてアルゼンチンはトルデシリャス条約を持ち出しており、敗戦後も現在まで同諸島の領有を主張し続けている。
マゼラン艦隊の生き残りを引き継いだフアン・セバスティアン・エルカーノが世界一周航海をなしとげてヨーロッパへ帰還すると、新しい疑問が起こってきた。それは地図上に南北に線をひいてスペインとポルトガルの境界をさだめていても、外国為替
が丸いなら不完全なもので、もう一本線をひかなければ分割の意味をなさないのではないかという当然の疑問であった。
特に両国は当時、東南アジアのモルッカ諸島の帰属をめぐって熾烈な争いを繰り広げていた。モルッカ諸島は当時の貴重品であった香辛料の一大産地だったからである。なお、この時代の「モルッカ諸島」というのは現代でいうところのマルク諸島、ブル島やセラム島を指している。さらにはモルッカ海を囲む島々も「モルッカ諸島」に分類され、香辛料の産地として有名であった。
こうしてアジアにおける線引きのための交渉がおこなわれ、新たに発効されたのが1529年4月22日に批准された「サラゴサ条約」である。サラゴサ条約はモルッカ諸島の西297.5リーグを通る子午線を第二の境界とした。これは位置的にはブル島の東1425km、東経144度30分の位置にあたっている。この子午線はニューギニア島中央部を通る。この条約を結んでアジアにおける地位を保全してもらうかわりにポルトガルはスペインに賠償金を支払っている。これによってポルトガルのマカオにおける権益が承認された。スペインはオーストラリア全域における優先権を獲得したが、ポルトガルによる調査を禁止した形跡はない。
トルデシリャス条約(スペイン語:Tratado de Tordesillas, ポルトガル語: Tratado de Tordesilhas)は1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれた条約で、当時両国が盛んに船団を送り込んでいた「新世界」における紛争を解決するため、教皇アレクサンデル6世の承認によってヨーロッパ以外の新領土の分割方式を取り決めた。
本条約において西アフリカのセネガル沖に浮かぶカーボベルデ諸島の西370リーグ(1770km)の海上において子午線にそった線(西経46度37分)の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することが定められた。名称の由来は、条約が批准されたカスティージャのトルデシリャスの地名からとられている。
サラゴサ条約もまた同じ意図によって、1529年に両国の間で批准された条約である。
1492年、クリストファー・コロンブスが「インド」(実際には西インド諸島)に到達し、帰還したことによって、ポルトガル・スペイン両国において「新世界」への冒険的航海がブームとなった。しかし、コロンブス以前から、船団の到達先において両国はしばしば争い、抜本的な解決策が求められていた。
すでに1481年に布告された教皇シクストゥス4世の回勅『エテルニ・レギス』(永遠の王)で、カナリア諸島以南の新領土はすべてポルトガルに与えられると定められていた。ところが1493年になるとスペイン出身であった教皇アレクサンデル6世が自国に便宜をはかろうとし、カーボベルデの西わずか100リーグの地点を通過する子午線を境界線(教皇子午線)に、それより東側はポルトガルに優先権を認めるにせよ、西側の土地はすべてスペイン領にするという回勅『インテル・チェテラ』を布告した。西方への航海熱が高まっていた時代、当然ポルトガルのジョアン2世にとってこの裁定は面白くなかった。
そこでジョアン2世はスペインのフェルディナンド2世と直接交渉してこの決定をくつがえし、境界線をさらに西側(結果的には教皇子午線よりさらに270リーグ西側)に移動させようとした。それによって「アジア」におけるスペインの影響力を抑えようとしたのである。こうして改めて結ばれたのがトルデシリャス条約であり、この条約を教皇が承認することで1493年の回勅を無効化することができた。トルデシリャス条約は1506年にユリウス2世によって廃止されるまで有効であった。