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最も古い講和の記録は古代エジプトとヒッタイトの間でカデシュの戦い(紀元前1285年ごろ)の後に交わされたものである。シリア地方をめぐって二つの帝国は長年摩擦を続け、ついに戦いが起こった。消耗が著しい4日間の戦いの後どちらも決定的な優位を得られないまま勝利を宣言した。しかし解決なしには数年後にも戦争が起こる可能性があり、両国にその余裕がなかったため、一応の講和を残して戦争は終結した。
この講和はエジプトの文字(ヒエログリフ)とヒッタイトの文字(楔形文字によるアッカド語)による互いの言語のバージョンが作られ、両者とも現存している。両者の言語で平和条約が作られるのは今日に至る方式であり、ほとんどの内容はまったく同じだが、読み比べると互いに都合のいい部分も見られる。ヒッタイト側の文章では「エジプトが請うて講和に至った」と書かれ、エジプト側では逆のことが書かれている。この条約は銀板の形で交わされ、エジプトが持ち帰った銀板の内容はカルナック神殿に刻まれた。
エジプトのラムセス2世とヒッタイトのハットゥシリ3世の敵対状態はこの条約で終結した。18条ある条文のうち、第1条は平和を謳い、互いの神々もそれを望んでいると宣言している。その後の内容は国境の確定、相互不可侵など近代の講和にもあるような内容だが、敵対行為の終結のみを取り決める近代の平和条約以上の内容がここにはある。すなわち、第三の敵がどちらかを攻めた場合、または内戦が起きた場合、両国が共同で防衛に当たるという同盟関係を作るという内容である。また難民の引渡しを義務付け、一切の危害を加えないという条件も課されている。これを最初の引渡し条約と見る者もいる。ほかにも条約が破られた場合の罰則もある。
これは国際関係のCFD
史上重要な資料であり、国際連合本部にもレプリカが展示されている。
平和条約の最も著名な例は、第一次世界大戦の公式な終わりとなったヴェルサイユ条約がある。この条約は一方では最も悪名高い平和条約で、歴史学者の中にはドイツにおける反発やナチズムの勃興につながり、第二次世界大戦を結果的に引き起こしたとして糾弾する者もいる。ヴェルサイユ条約により、ドイツは巨額の賠償金を戦勝国へ払うよう強制され、第一次大戦を起こした戦争責任を唯一引き受けさせられ、再軍備に関して厳しい制限をかけられたが、これがドイツ国内に深い恨みと反感を呼び起こした。ヴェルサイユ条約に第二次大戦を引き起こした責任があるのかどうかについてはさておき、これは平和条約を作ることに存在する困難を示すものである。
その他平和条約の有名な例にはウェストファリア条約として知られる一連の平和条約がある。これは近代的な外交手法の始まりであり近代国際法の元祖となり、近代的な国民国家システムの開始ともされる。この後の戦争は宗教の問題をめぐるものではなく、国家の問題をめぐるものとなった。またカトリックとプロテスタントの勢力が同盟を結ぶことを可能にし、欧州の再編につながった。
ヴェルダン条約(−じょうやく、独Vertrag von Verdun)は、843年にフランク王国(カロリング朝)の王ルートヴィヒ1世(敬虔王、ルイ1世)の死後、遺子であるロタール、ルートヴィヒ、カールがフランク王国を3分割して相続することを定めた条約。
ヴェルダン条約(843年)とメルセン条約(870年)で定められた国境この条約によって東フランク王国、西フランク王国、中フランク王国が誕生し、それぞれ現在のドイツ、フランス、イタリアの原型が形成された。
814年に カール大帝が歿すると、彼の後を継いだルートヴィヒ敬虔王(Ludwig der Fromme)は817年、「帝国整備(計画)令(Ordinatio Imperii)」を発布。長男ロタール(Lothar)を共同統治者とすると共に、ロタールには王国本土を、次男ピピン(Pippin)と三男ルートヴィヒ(Ludwig)にはそれぞれアクィタニアとバイエルンとを与える分割統治案を定め、分権的統一王国の創出を図った。
フランク族には「領土相続権を日経225
のみに与えるのではなく、分割相続させる」という慣習が存在した。帝国計画令は、この分割相続の理念と統一国家維持の理念との妥協点を見出すために発布されたものであった。
しかし、823年に第2妃ユーディットとの間に末弟カール(Karl)が誕生すると、彼を偏愛する敬虔王はカールが不利益を被ることを避けるため、831年、国土分割的理念を新たな統治案に盛り込み、カールにも領土を与えることを決めた。
ロタールら3兄は、手中に収まるはずの領土が削減されたことに不満を募らせた。 リヨン大司教アゴバルト(Agobard)ら有力聖職者もこの案に反発した。統一王国の理念を奉じ、832年に3兄が敬虔王への反乱を企てた際には、これを支持。翌833年に敬虔王は廃位された。しかし、その後行われた3兄間の取引は決裂、更に834年に復位を果たした敬虔王は、なおもカールに有利な分割案に執着した。この相続争いは、838年にピピンが死去したことにより、一層激化した。
840年に敬虔王が薨去するに至って、領土を巡る兄弟の対立は頂点を迎えた。841年、フォントノワの戦い(Schlacht von Fontenoy)で3者は会戦。王国全土を領有せんとするロタールに対し、ルートヴィヒとカールは同盟を結び、ロタール軍を撃破した。更に翌842年、ストラスブールの誓約(Serments de Strasbourg(仏)、Strasburger Eide(独))で2人は同盟関係を再確認、国土の分割をロタールに迫った。こうした圧力の結果、843年8月10日にルートヴィヒとカールはヴェルダン(Verdun)において、王国を3分する案をロタールに呑ませた。ロタールの野望はここに潰えたのである。
条約の本文は散逸しているが、くりっく365
代の年代記によってその概略が伝えられている。
ロタールは中部フランク及びイタリア北部、それに西ローマ帝国皇帝の位を獲得。皇帝ロタール1世を名乗るが、宗主権は失った。またルートヴィヒは東フランク王国を獲得して国王ルートヴィヒ2世(ルイ2世)を、カールは西フランク王国を獲得して国王シャルル2世(禿頭王)(カール2世)を名乗った。
このうち中部フランクは、ロタールの名を冠するロタリンギアやアルザス、ロンバルディア、ブルグントより成る。なお、仏語の「ロレーヌ(Lorraine)」、独語の「ロートリンゲン(Lothringen)」は、ロタリンギアに由来する。
ロタールの死後、この地を巡って領土問題が再燃。870年のメルセン条約(Vertrag von Mersen)で一応の帰結をみるが、その後も仏独間の外交問題としてくすぶり続けた。
同条約は、分割相続というフランク族特有の概念を色濃く反映した結果であり、これによりフランク王国は事実上解体された。
フランク王国(フランクおうこく、仏:Francs 独:Frankisches Reich)は、5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国。
ゲルマン系のフランク人サリー支族が建てた王国であることからこの名がある。現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク及びスロベニアを領土とした。首都は508年にパリに置かれた。カール大帝時代はアーヘンに王宮が置かれて事実上の首都となった。
フランク王国の成立は、古代末期、旧ローマ帝国領にゲルマン系諸族が大量の移住を行ったことに起因する。特にフランク族のサリー支族はローマ帝国の同盟軍として、シカンブリ人など他のゲルマン系部族やローマ系住民を吸収して共同の軍役の中で集団形成を行い、ローマ的要素とゲルマン的要素を併せ持つ文化を発展させた。幾つかの幸運が重なり、フランク族は3世紀の間、中部ヨーロッパで勢力を保ち続け、次第に現在のドイツとフランスに勢力を伸ばした。ローマ帝国の没落につれて、フランク王国は西ヨーロッパで最大の国力をもつこととなった。フランク王国の系譜は、シカンブリ人系のサリー・フランク人クロヴィス1世がフランク人を統一して王国を開いたメロヴィング朝と、それを継承したカロリング朝に分けられる。
サリー支族から出たクローヴィス王は、フランク人を統一して覇権的地位を得た。その上でランス司教のレミギウスの洗礼によりカトリックを受容した。このことは、旧ローマ帝国領で既にカトリックを受容していた在地勢力からの支持を得る上でも有益であった。その後もゲルマン諸勢力に対して遠征を敢行し、507年にはヴイエの戦いで西ゴート王国からガリア南部を奪い、ガリア支配を確立させた。
フランク王国では分割相続がとられた。そのため、クローヴィスの死後に王国はテウデリヒ1世、クロドメール、ヒルデベルト、クロタール1世の4人によって分割された。これらの分王国は、6世紀半ばのクロタール1世や、7世紀初頭のクロタール2世によって再統一されることもあったが、多くの分国王は領内の指導力を欠いており、有力貴族が宮宰(王宮の長官)の地位について貴族を統率していた。とりわけ、アウストラシア分王国ではカロリング家が宮宰の地位を世襲化しており、7世紀後半の宮宰ピピン2世(中ピピン)は全ての分王国における宮宰職を独占するに至った。こうして台頭したカロリング家は、各地の実力者にその所領や特権を保障し、その代償として自らの家臣団に組み込んで軍事的奉仕を求めることで、その地位を強化していった。