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さらに権力に関しても、幕藩体制における各藩が独自の軍事機構を持ち、幕府の藩内内政への干渉権が大幅に制限されていたように、決して主権的ではなかった。
現代社会において近代国家の表看板を掲げていても、アフガニスタンのように内部の実情は複数の自立的共同体が必ずしも国家機構の主権下に服さずに国家体制の構成要素となっている国家は存続している。今日の国際関係は、近代的主権国家間の関係を前提として成立しており、こうした国家の存在は様々な紛争の火種を内包している。さらに、この問題は同時に、近代的主権国家の歴史的な特殊性の問題点を投げかけているともいえる。
国家と対立する、テロまたはテロ国家の概念が、イラク戦争や、アメリカ同時多発テロ以降問題になりつつある。
社会学における国家の定義は法学や政治学とは異なり、国家の権力の中身ではなく、あくまでその形式のほうに向けられている。社会学的な国家(ここでは近代国家)の定義でもっとも代表的なものがマックス・ウェーバーによるものである。ウェーバーは二つの側面から国家を理解していた。第一には、警察や軍隊などの暴力手段を合法的に独占していること、そして第二には、官僚や議員など統治組織の維持そのものを職業として生計を立てる専門家によって構成されている政治的共同体であるということである。この定義を詳しく見ると、以下のようにまとめることができる。
(1)中世のヨーロッパでは、国家は軍事組織をほとんど独占しておらず、戦争は貴族の私兵や傭兵隊などによって賄われるのが通例であり、国家が直接的に訓練・組織化に関わることは少なかった。しかし、17世紀以降の絶対王政と国家間戦争の激化により、王国に排他的な忠誠を誓う「常備軍」を整備しはじめ、次第に底辺の家族や村落の中にまで徴税や徴兵の権力が介入していくようになる。それに伴って、国家に動員される民衆の間には自ずと政治意識や権利意識も生じ始め、国家の利益を直接的に代表するのは世襲身分による王家や貴族ではなく、われわれ平等な「国民」であるという理解が次第に形成され、これが18世紀末以降に革命を帰結させていくことになる。「国民」意識が教育制度などを通じて浸透するようになると、もはや国家が直接的な強制力を行使して兵士を徴収する徴兵制よりも、二次大戦以降には「国民」の中から志願兵を募るという方向へと転換し、軍隊はより一層「専門化」していくことになる。
(2)中世以前の国家は、国王と臣下、領主、都市国家、地域共同体といった様々な中間集団との重層的な関係の中にあり、国家は家族・親族の領域と未分化の状態であった。しかし、戦争の規模の拡大と市場経済化および産業化の波は、国家と個人の直接的な関係と社会の均質的画一化を推し進めるものであり、これらに対応するためには、国家を統一的に運営するためのルール(法律)と、専門的な職業家(官僚・議員)を必要とするようになった。こうして、国家が統治組織として専門分化することにより、統治される対象としての「社会(市民社会)」が自律的な領域として分化していくことになる。
近年は、強力な官僚制と「物理的暴力の独占」を強調するというウェーバーの議論に対して、そもそも国家はそのように堅固な統一性をもった統治組織なのではなく、民意や社会の変動の前に不安定で不統一的なものであるという説明がなされることもある。現代社会を批評する議論の中には、国民国家が既に無意味になってしまったかのように語られることもあるが、社会学の国家論ではほとんど否定されている。
概念の内容については、きわめて不明確であり、論者によってさまざまな意味が盛りこまれるため、統一的な定義を下すことは困難である。しかし、一般的には、国家の最高独立性を表す概念と理解、もともと東西ドイツ分割時代に、互いの主権SouveranitatまたはSouveranitatsrechteが、真の国家主権ではないというニュアンスでHoheitないしHoheitsrechteの訳語が用いられたのであるから、やはり"高権"と訳すのが正確な翻訳だろう。
日常的な意味は「至上であること」「最高であること」であり、これを軸に法的な概念を理解すると分かりやすい。
なお、一般にはジャン・ボダンの学説に溯る概念だと説かれることが多いが、実際にはボダンの前にもレジスト(ローマ法に通じ中央集権論者たる法律家)によって説かれており、ボダンはそれを理論的に集大成したにすぎないという説もある。
中世ヨーロッパの秩序においては、カタログギフト
の皇帝や諸侯は、多かれ少なかれ、ローマ・カトリック教会の権威に従属していた。また、俗界の支配関係は、土地を媒介として重層的に支配服従関係が織り成される封建制により規律されていた。例えば、神聖ローマ帝国においては、領邦君主は帝国等族として皇帝に従属し、領邦においては、領邦等族が領邦君主に従属していた。
しかし、このような中世的秩序は、次のような過程を経て、徐々に崩壊していくことになる:
マルティン・ルター等の宗教改革により、ローマ・カトリック教会の宗教的・政治的権威が揺らいだ。
宗派間対立の妥協として、アウグスブルクの宗教和議により「ある者に領土の属する場合には、その者に宗教もまた属する(cuius regio, eius religio)」という領邦教会制が生まれた。この結果、領邦君主が領邦の宗教をルター派とすることにより、カトリック教会の支配から独立することが可能となった。
宗教戦争である三十年戦争が勃発した。その講和条約として、ヴェストファーレン条約が締結された結果、ヴェストファーレン体制という勢力均衡の国際的な枠組が生まれ、国際法上国家は平等であるという原則が形成された。
ナポレオンの侵攻が原因で、神聖ローマ帝国において次のことが起こった。
世俗化(Saklarisation)により、聖界諸侯の領邦は廃止された。
陪臣化(Mediatisierung)により、すべての聖界諸侯と多くの俗界諸侯が、皇帝ではなく領邦君主からレーン権(Lehnsrecht)を封じられることになった。つまり、帝国直属の等族(reichsunmittelbare Stande)ではなくなった。結果として、残存した領邦は大規模化した。
皇帝の廃位によって、神聖ローマ帝国は消滅した。この結果、領邦国家は、法的には他者に従属しない存在となった。
このような過程を経て生み出されたリサイクルショップ 神戸
国家を形容する語が「主権」である。
まず、「国家が外に対して独立している」ということが、「主権」の内容として語られることがある。国家は互いに平等であり、その上に存在する権威はないため、「最高独立性」といわれることもある。近代国家である以上、対外的に独立していなければならず、逆に、対外的に独立していない場合は、それは国家ではない(国際法上の国家の要件が欠缺している)ということになる。
次に、「国家が内に対して最高至上である」ということが、「主権」の内容として語られることがある。近代国家においては、国家は、自らの領土において、いかなる反対の意思を表示する個人・団体に対しても、最終的には、物理的実力(physische Gewalt)を用いて、自己の意思を貫徹することができる。この意味で、国家は対内的に至高の存在であり、これを「主権的」と表現するのである。この意味で用いる場合には、「主権」という語は、領土に対する統治権という意味とほぼ同じ意味内容を持つ。
第三に、「ある国家のうちで、実際に至高の存在はヒューマン
即ち、実際に最終的に決定する力を持っているのは誰なのか?」というの問題も、「主権」の問題として語られることがある。この問題について、日本では、ドイツ流の議論とフランス流の議論の両方が混在している。
まず、ドイツ流の議論では、君主主権説と人民主権(Volkssouveranitat)説が対立し、その折衷説として国家主権説が唱えられることになる。この論争は、日本に輸入されて、いわゆる天皇機関説論争となった。天皇機関説は、国家主権説の系であり、天皇機関説論争は、要するところ、君主主権説と国家主権説の論争である。
次に、フランス流の議論では、フランス革命によって君主(ブルボン家のルイ16世 (フランス王))がギロチンで処刑されたために、君主主権説の前提が存在しなくなったので、ドイツ流の三者間の対立とは異なり、ナシオン主権(souverainete nationale)論とプープル主権(souverainete du peuple)論の二者の対立となる。強いて比較をするとすれば、さしずめプープル主権論が人民主権説に相似し、ナシオン主権論が国家主権説に相似するといえるだろう。しかし、こちらの議論で重要なのは、特に帰結である。ナシオン主権論は、抽象的なナシオン(nation)が主権者であり、ナシオンが授権した代表者はナシオン(の利益)を代表するのであるから(「純粋代表制(regime representatif pur)」という)、選挙民による命令委任(mandat imperatif)は否定すべきであると考えられることになる。これに対して、プープル主権においては、具体的なプープル(peuple、人民)こそが主権者であり、具体的な人民の具体的利益こそが政治に反映されるべきであり、命令委任は肯定すべきと考えられることになる。
ナシオン主権をリサイクルトナー
したのがフランス1791年憲法であり、プープル主権を体現したのがフランス1793年憲法であるといわれる。フランス革命以前のアンシャン・レジームにおいては、三つの身分の利益を代表する身分制議会(これを「三部会」という)が存在していたが、そのような身分社会に対する第三身分の反感が、フランス1791年憲法において、唯一のナシオンを標榜するナシオン主権論に帰着したといえる。